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20. アダムとイヴ いつの頃からか、快斗はこの部屋の扉を開けなくなった。 俺も快斗の部屋には行かなくなった。 小学生の頃は、友だちを交えて一緒に遊んだり、家の居間でゲームをしたりと、比較的仲の良い兄弟だったと思う。喧嘩をしても、気がついたらまたいつも通りふざけ合っていた。 友だちや親戚は皆、俺たちを見ると「似ている」と口をそろえて言った。一卵性双生児なのだから似ていて当然だ。俺は快斗の顔を見て、自分に似ているなどと思ったことはなかったが、そう言われることに対して嫌悪感はなかった。なぜか、少しだけ嬉しかった。 快斗の態度が変わりだしたのは、中学生になって暫くしてからのことだった。 目を合わさない。話しかけても碌に返事をしない。学校はもちろん、家でもその様子だった快斗に、親は、思春期特有の照れだと大して気にしなかったが、俺には分かってしまった。快斗が本気で俺を疎ましく思っているのだと。 それから俺は、学校でも、家でも、快斗の目には見えない存在となった。こっちから話しかけなければ俺などいないも同然だった。別のクラスで、別の部活、別の友人…まるで名字が同じだけの他人だった。 快斗に距離を置かれている間、俺は、ずっと快斗が恋しかった。そして快斗を怨んだ。あいつがこんな仕打ちをしなければ、この気持ちに気付くことはなかったのに、と。 快斗の隣にいる女を憎らしく思う、こんな醜い自分を知りたくなかった。 快斗からの一方的な絶縁に、何もすることができず、俺はただ途方に暮れた。 そんな冷戦状態だった関係に、ある日突然終止符が打たれた。 その日は両親が旅行に出かけていて、家には俺と快斗しかいなかった。両親不在の夜を過ごすのが初めてだった訳ではない。俺たちはそんな日、親の監視がない分、輪をかけて接触を避けて過ごす。極力、同じ空間にいないように。快斗がそう望んでいると思ったから、俺も側に寄らないよう気をつけていた。 その日の夕方、俺は一人、キッチンでレトルトのカレーを温めていた。もちろん、快斗の分まで作ったりはしない。 快斗は二階で何をしているのだろうとぼうっと考えながら、ガスのスイッチを切り、カレーの入った袋を取り出して、片手鍋の湯を捨てようと柄を持った。シンクに流そうとした瞬間、パキンと何かが折れた音とともに湯の重みが手から消えた。使い古した鍋の柄がぽっきりと折れてしまったのだ。その後、鍋とシンクがぶつかる大きな音が耳に響き、手と脚に刺すような刺激、そして鍋が床に落ちた音がけたたましく耳を打った。 「………っ…」 さっきまで沸騰していた湯の熱さは想像を絶するものだった。手はすぐに真っ赤に腫れ上がり、感覚を失っていた。 ふと、背後に気配を感じ、ぎくりと肩を震わせた。あれだけの大音に快斗が気付かぬはずはない。あえてそちらを向かずに、俺は無言で、動かせる右手で鍋を拾い上げ、零れた湯の始末を始めた。どうしようもなく虚しかった。痛む左手を宙に浮かせたまま雑巾で床を拭っていると、なんだか泣きたくなった。きっと快斗はどん臭いやつだと呆れている。背中に刺すような視線を感じながら、必死で床を拭いた。だが、鍋一杯分の湯はそう簡単には拭いきれない。体の熱を持った部分がじんじんと痛んだ。 俺がもたもたと片付けに手間どっていると、背後から大きな足音が近づいてきた。快斗が俺にイラついているのだ。 だが、快斗の行動は俺の予想に反するものだった。 「何やってんだよ!早く冷やせよ、バカ!」 快斗は強引に俺の手――赤くなっていない部分――を引き、最大まで吐き出させた水道の水につけた。熱でおかしくなった皮膚に冷水がピリピリと痛んだ。 「そのまま動くなよ」 やはり怒っている様子の快斗。今度は冷凍庫から氷を出して手早く氷袋を作ると、俺の脚に押し付ける。床はまだ水浸しで、しゃがんだ快斗の膝を濡らした。それを申し訳なく思いながらも、そこまでしてくれた快斗に感激もした。まだ、全て見限られたわけではないのだと。 「ごめん…ありがと…」 「…片付ける前に冷やせよな」 そう言った快斗は、やはりどこかイラついていた。 手はずっと赤いままだが、痛みはひいた。氷枕を代用して脚と手を冷やしながらベッドに寝転んだ。カレーは食べる気分ではなくなったので台所に放置した。横になって眼を閉じると、先ほどのことばかり思い出してしまう。快斗とあんなに近くで話したのは、いつ以来だろうか。記憶の中の快斗は、小学生で、俺と背が変わらなくて、やんちゃで怪我の絶えない男の子だ。だが、さっき間近で見た快斗は俺より背が高く、不機嫌そうな顔で、男らしくなっていた。話をしない間に俺たちは変わってしまったのかもしれない。体も、心も。 兄弟なのに、触れただけで、こんなにも胸がざわつくなんて。 自己嫌悪に陥っていると、コンコンと躊躇いがちなノックの音がした。今扉を叩くのは快斗しかいない。 快斗がこの部屋の扉をノックしたのは初めてだった。俺たちの部屋は小学校中学年の時に分けられた。周りの友人らと比べると、割と早くに個々の部屋を与えられた方だと思う。その当時、快斗はノックなしで無遠慮にこの部屋にやってきたものだった。 少し間を置いて返事をした。 ドアノブが回る。 俺にとってこの扉は、俺たちの間にある壁も同然だった。相手が向こう側に居ても見えない。自分で壊さなければ近づけない。ぶ厚くて高くて、自ら塗り固めてしまっている壁だ。開けるのは簡単で、その方法も知っていたのに、俺にはそれができなかった。開けてもそこにはもう快斗がいない気がして怖かった。 その扉が、今開く。快斗の意思で。 「……起こしたか?」 「いや、起きてたから」 「薬局行ってもよかったんだけど、こっちの方が効きそうだったから」 快斗は少し気まずそうに右手にあるものを見せた。俺と同様緊張しているのがわかる。 「これ…母さんの育ててる…」 「火傷にいいんだよ」 快斗が持って来たのはアロエだった。庭にある鉢から葉を一つ千切ってきたのだ。 ベッドに座った快斗が、俺の手を取り膝に置く。アロエの肉厚の葉を裂いて、白く瑞々しい部分を患部に貼り付けた。そして、その上から包帯を巻いた。 ピリッと低電流を流したような痛みが、神経を伝わって脳に届く。 耳が熱かった。火照った患部にアロエの潤いが冷たくて気持ちいい。だが、顔は蒸発しそうに熱い。 快斗が優しい。それだけで泣きそうになる。自分で思っていたよりずっと、俺は快斗に飢えていたのだ。 「脚出して」 俺がやましいことを考えている間、快斗は黙々と手を動かした。脚はふくらはぎと足首に少しかかっただけなので患部はそれほど広くない。 俺の脚を治療する快斗。その姿には昔の面影があまりない。かつてランドセルを背負ったまま手にカブトムシを持ってここにやってきた少年と、この無口な男は本当に同一人物なのだろうか。 「明日も痛むようだったら医者行けよ」 「ああ……」 「それと、ああいう時は先に自分の体優先しろよ。片づけなんて後でもできるだろ?俺もいるんだし…」 なんで今日はこんなに優しいのか。傷が治ったらまた元通りなのか。 うつむいていた顔を上げた。快斗と目が合う。俺の顔は赤いままで、見っとも無い表情をしているのは自覚していた。無意識に快斗の手を掴む。 ピリピリ。動かした腕が痛む。 快斗はしばらく俺と目を合わせた後、苦渋の表情で顔を背けた。 「快斗?」 「……クソっ!」 「かい――――」 胸に温もり。頬に触れる跳ねた黒髪。それは、背骨の軋むほどの抱擁だった。 「そうやって、新一はいつも俺を追い詰めるんだな」 「そんなつもり……」 やはり快斗にとって俺の気持ちは迷惑なのか? 抱き締められている意味も考えず、俺の思考は暗くなる。だが、次の瞬間、口唇へのキスとともにベッドに押し倒された。俺の両手をベッドに縫いとめ、快斗は角度を変えて何度もキスを繰り返す。唇を啄ばまれるたび、体の内側から熱が広がってゆくのを感じた。 「お前がそんなだから、俺は…」 「か、いと…」 キスの合間にも快斗は、口で、手で、俺を責める。 「触りたくて仕方がなくなるんだ」 身体を忙しなく這い回っていた手が、シャツを捲り上げ、素肌に吸い付いた。 冷たい手にビクッと身体が反応する。 「いいよ」 目が潤んでいるせいで、快斗の顔が歪んで見えた。快斗の巻いた包帯のついた手で、快斗の頬に触れ、告げる。出た声が思いの外甘ったるく響いたのに自分でも驚いた。まるで強請っているようだった。 「お前なら、何してもいいんだぜ?快斗」 「しんいち…」 「俺も、お前に触れたいよ」 快斗の頬に両手を添えて、初めての俺からのキスをする。 「俺たちがいくら混ざり合ったって、何も生まないけどな…」 自嘲気味に言うと、快斗が荒々しいキスをして、手の動きを再開させる。 縦横無尽に這う手は俺の身体を好き勝手に嬲る。それに嬌声で応えながら、俺は、もう後には引けないところまで来てしまったのだと思った。 fin (070415) |